埋蔵金伝説(2)

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実は我が国にも同じように暗号によって隠し場所が記されていると言われる埋蔵金の伝説が残っている。天正12年(1584年)、越中冨山五十四万石の領主であった佐々成政は、真冬の日本アルプスを越えて浜松の徳川家康の元へ向かっていた。

羽柴(豊臣)秀吉に対抗するために同盟を結んでいた家康が約束を違え、勝手に秀吉と和睦を結んでしまったためである。単独では秀吉に対抗しえない成政にとって、家康と秀吉の和睦は自らの滅亡を意味する。雪の日本アルプスを越えるという危険を冒したのも、家康を再び同盟に引き入れない限り、破滅は免れ得ないからだ。ところが、浜松で面会した家康は、再起を促す成政の申し入れを拒絶する。結局成政は何の成果も得ることが出来ないまま、冨山城まで引き返すことになった。これが俗に言う“ささら越え”の顛末である。

さて、ここからいよいよ本題の埋蔵金の話しに入る。ささら越えの道中、佐々成政は49個の壷に詰められたおよそ100万両もの小判を運搬させていた。どうやらこの小判は、徳川家康に献上するための軍資金であったらしい。ところが、家康が色よい返事をくれなかったため、結局成政はこの小判を持ち帰ることになる。帰り道の道中、厳しい雪山の中で供のものが一人、また一人と倒れていく中、成政は行軍の邪魔になる小判を雪の中に埋めさせることにした。その小判の隠し場所を示したといわれる里歌がこれだ。

「朝日さす 夕日かがやく 鍬崎に 七つむすび 七むすび 黄金一ぱい 光かがやく」

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